君は君の母に咥えられて家に来た。20年以上前の出来事なのでもはや自分の記憶を信用できないが、両親もそう言うので間違いないのだろう。
君の母は長い尻尾にキジトラのスレンダーな日本猫だ。私の家が駐車場を借りていた山地主に世話されている野良猫の中の一人で、カリカリ(ドライフード)を持っていくと競って食べ、時たま家まで来てご飯をねだる子だったように思う。
そんな特に気にかけていた猫が子供を生んで、託すように2人置いていった。
一人は黒猫のくろちび。残念なことに、この子は病気で早くに亡くなってしまったので、小さかった私の記憶にはない。聞くところによると、私の父によくなつき、父親猫のくろぞうによく似た子だったようだ。
そしてもう一人が君。名をしま。母譲りのキジトラ色に父の黒色が混じった毛皮とくるんと丸まる短いかぎしっぽの、私のこれまでの人生のほとんどを共に生きてきた家族。
君は生まれながらに右後足の指が一本ない。これは厳しい縄張り争いを繰り広げる野良猫界では大きなことだ。私が幼稚園の頃、近所の大きな野良猫と喧嘩して流血しながら帰ってくることが何度かあった。すると決まって(君は嫌なのだろうが)病院に連れて行くのだが、そこへは車で片道10分ほど。そう聞くと大したことがないように聞こえるかも知れないが、家が急坂の地区にあるため非常に揺れ、君は帰り道によく吐いた。そして、家で猫かごから出すと非難めいた目をした後にケロリとご飯をねだるのだ。
私が小学生くらいになると怪我をすることは少なくなったように思う。きっと成猫になり、猫らしい速度で走れるようになったからなのかもしれないが、大抵のことで動じない肝っ玉が育ったからではないかとも思う。だからといって、蛇と睨み合いは良くない。どちらも動かないものだから近所の人が集まってきて、最後は猫缶の音で君の気を引いて帰らせたのは良い思い出だ。
君の父のくろぞうが死んだのもこの頃だろうか。死因は交通事故だったように思う。たまに様子を見に来る面倒見のいい猫だった。
君の母のちまちまは家に来るが馴れ合うことはなく、一定の距離感でお気に入りの物置上に二人でたそがれていたね。しばらくしてうちに来なくなり、近所の川で亡くなっていたと連絡された日は悲しかったし、託された相手として責任を感じる出来事だったよ。
君はちまちまやくろぞう、くろちびの分まで生きるんだよと言って育てられた。家の外と内を自由に行き来する子だったから、出勤前の父や母にご飯をもらって出かける日もあったし、心配な中、朝帰りしてきた日もあった。雨なのに帰ってこない時、君が遊んでいるであろう裏山方向ヘ大声で呼びかけたのは数え切れないほどだ。そうして帰ってきた君は泥だらけで、母に捕まって拭かれるのだが、隙を見て逃げ出して茶色の足跡をつける。
君とはよく母の膝の上の取り合いをした。過疎地であるので近所に同級生はおらず、遊べる相手もいなかったから、私は暇が日常だった。数少ない話相手の母を取られた気がして文句を言っていたし、逆に君にかまってもらおうと膝の上に乗せてすぐ逃げられもした。元気が有り余っていた君とは猫じゃらしやネズミのおもちゃで遊び合っていたね。リビングと隣接している風呂場のすりガラスを介して遊びもした。ぼやけた私の指が獲物に見えた君は猫パンチでドン、ドンと叩き、気分が良くなると部屋を駆け回ってまた戻って来る。まだ走り回ることができた君は階段もなんのそので登り、日当たりのいい父のベットや、夜には私と母の間にすっぽりハマって寝ていたね。二階のベランダと物置の間に簀の子で道が作られていたから、起きた君はその上で爪とぎをし、階段状になった2つの物置を駆け下りて冒険へ出かけていくのだ。
そんな君でも私が泣いている時はいつもそばにいてくれた。中学受験、その後の中学生活がうまくいかなかった私のそばで気を引こうと、するりするりと体を擦り付ける君の姿は今も覚えている。この頃になると私も成長して、君を胡座の上に載せられるようになる。自室が与えられ、一人で寝るようになった私と一緒に寝た日は何度もあるけれど、あの頃は足元で丸まっていた日が多かった。でも、一度だけ仰向けの私の胸の上を陣取った日があった。喉の音で起きた私は目の前に君の顔があって驚き、どうしていいかわからずにしばらく見つめ合ったことを覚えているよ。
そうして私が中学3年になったくらいで君は病気をした。頬の両側がたんこぶのように腫れ、痛いのかご飯を食べる量も減った。行きつけの獣医さんに見せに行くと頬の皮に膿が溜まっていると言われて、確か頬の毛を刈られたと思う。齢10を超えた君の弱りようは相当で、吐きそうになった後に自室で眠る君の横で”私の人生を半分あげるから長生きさせてください”とマリア様に祈りもした(筆者は厳密なクリスチャンではないが、幼稚園がカトリックだったので信仰が混じる)。祈りが通じたのか、それとも君の気力か、無事に完治した日はなんと安心したことか。でも、外で膿袋に穴を開け、血をダラダラ流しながら帰ってきた日は肝が冷えたよ。その時初めて一人で獣医さんに電話もした。
私が高校生になった時、一家で都会に引っ越すことになり、君の生活を変えてしまったね。裏山や近所の家の車の上、畑、私の知らない何処かへ行けなくなり、可愛がってくれていた近所の人や野良猫とも会えなくなった。正直この原因であろう私は後悔があるし、申し訳ない気持ちがある。君は次の日に行きたい場所があっただろうし、会う約束をしていた誰かがいたかもしれない。新しい家の一年目に大きな声で鳴いていたのは誰かや何処かが恋しかったのではないかと考える時も何度もあった。でも、終わりを共にできた今、これで良かったのかもと思う勝手な自分もいる。
引っ越しが済んだ後、車の数が多いからと家飼いにしようとして、でも君は猫用トイレでしようとしないものだから、新しい庭の小さな土スペースに連れて行くことが日常になった。もちろん君はそれだけでは物足りず、最初は猫用のリードをつけ、程なくしてそれをなくして家の誰かと散歩するようになる。この時すでに10代後半、人間では60歳以上なのだから、隣の誰かを置いて駆け出すこともなかったね。目の前の公園や横道の坂を止められながらもずんずん進んでいく君の逞しさには嬉しく思っていた。流石に徒歩15分の駅への道の2/3を踏破した時は驚き止めてしまったけれど、止めなければどこへ行っていこうとしていたのか、いつか教えてほしい。
君は大学生になった私の膝が大好きだった。獲物を狙うときのように前傾姿勢になって飛び上がり、私の膝に乗るのだが、時々失敗して落ちそうになり爪を立てるのが痛い。下ろすと不満げな目をするのがかわいそうでそのままにしておくと、君は全体重を預けて本格的に寝に入る。その時の嬉しそうな顔、くるりとたたむ足、上がったかぎしっぽが愛おしくて抱き寄せて撫でるも、おしりの痛さや春夏の暑さで起きる前に下ろすことも少なくなかった。でも君は満足そうに電気カーペットの上に敷かれたタオルで眠っていたよね。
君が自力で膝に乗れなくなったのはコロナ禍の頃だった。日当たりの良さで好んで乗っていた父の高床式のベットの上り下りの際に右後足の踵を怪我し、可動が多い部位のために常に包帯をしなくてはならなくなった。程なくして階段での怪我で前足の骨が曲がり、自力で1階2階の行き来もできなくなる。でも君はよく食べた。20歳を越えようというのに袋(ウェットフード)一つとカリカリを二袋、時たま食卓に上がったり、父が釣ってきた刺し身をガシガシと食べ、君の水皿や外のバケツの水をよく飲んだ。
この頃からトイレ場に連れて行ってもすぐにすることはなくなったけれど、きちんと自分で済ませることはできていた。庭に出るルートを母の部屋経由しか敷いていないこともあり、夜は母と眠ることが多くなっていたけれど、トイレの遠い冬や母の出かける土曜の朝は一緒に寝たね。この頃の君は腕枕や広げた腕と横腹の間に挟まり、布団から顔を出すのが好きで、そうなると君の顔がよく見える。目を閉じて安らかに眠る君の寝顔を見ながら、一緒に温かい布団で眠る日々が恋しい。
私が就職しても君はいた。”高校生卒業までは”がいつか”大学生卒業まで”になって、そして大学院卒業を超えた。君は目がほとんど見えなくなって、幼少期にもほとんど覚えがない頻度でよく鳴くようになった。ご飯の場所がわからず、誰かが連れて行かないと食べられない。トイレに行きたくなるとそわそわして、限界が近づくと高い声で鳴く。トイレに連れて行ってもひどい時は3時間ほど出ない。腰は曲がり、歩く時はふらついて、時たまコケる。定位置が私の隣の椅子から電気毛布付きの座布団に。歯が痛むようでしきりに気にし、舐められずに噛むようになった。
それでも君は大きな声で私や両親を呼ぶ。賢い子なので、呼べば膝の上に乗せてもらえたり、ご飯を新しくもらえるのがわかっている。母が買い物でいない平日の昼、君は鳴き声や足音で私を呼び、膝の上に収まる。家族と価値観があわず、何度も一人暮らしをしようと物件を探した私を留めたのは君だ。自由を何よりの価値とする私が許した不自由が君だ。
君は一人ではご飯が食べられなくなった。足に力が入らず、倒れてしまうので誰かが支えなくてはならない。珍しく外のトイレをする時も最中に体勢を崩してしまう。それでもご飯は変わらず食べ、懸命に生きた。
2023年の冬、君の食欲がなくなりだした。私はあまりわからなかったけれど、母がそう言った。言われて確かに、以前よりご飯を残すようになったし、水の飲み方もガブガブというよりは大人しくなっていた。そうして君は極端にトイレが近くなる。それまで早くても6時間間隔だったトイレは3時間おきになり、気がついたら部屋でしてしまっていることもあった。
遂に君はおむつを付けられ始めた。自由奔放な君は嫌がり続けるのではと思ってたけれど、程なくして慣れたようだったね。やはりどこでもできて楽なのだろうか。でも私が清水寺から飛び降りる気持ちで買った凄く高いオフィスチェアの上で漏らすのはやめてほしかった。おむつを付けるのが下手だった私が悪いのだけれど。
12月。君は腹から血を出した。トイレが近くなるのは腎臓の病気なので血尿だと思うが、便でも血を出した事があるので血便かもしれない。獣医さんには直接は見せなかった。引っ越した後でも病院に行くには車が必要で、老体には負担が大きいからだ。そして、血を出した翌々日には収まったのも助けた。正直何度目かもわからない覚悟をしていたのでほっとした。しかし、君はどんどんと食が細くなり、あんなに大好きだった刺し身を全て食べられなくなった。夜はそわそわして寝られない日もあった。
そして24日、何も口にしなくなった。目がなかった鮭の切れ端を口に含んでも吐き出してしまうし、水も飲もうとしない。飲まないとお迎えが近いことは知っている。でも、膝の上で眠る君が向こうへ逝ってしまうことに現実感はなかった。その日、薬局でスポイトを買い、水や流動食をあげようとしたけれど、君の口は受け付けなかった。その日は母と交互に抱いて過ごした。
25日の朝、母の部屋を見に行って、まだ君の息があることに安堵した。母方の祖母の死去の連絡を受けたのは朝であったので嫌な予感はあった。そのまま添い寝をしてみても君の反応は薄い。何より布団の主がいなくなってその体温が抜けた以上に君は冷たかった。しばらくして、君が頭を上げたので腕枕をするが、瞳がダラリと下を向く。今日でお別れかもしれないと、そう思った。
しばらくして母とリビングに連れていった。足を悪くしたので既に一人では立てなくなっていたが、その時は立とうともできない。母がスポイトで水をあげても吐いてしまう。
私は君の手を握り、会社に休みの連絡を入れ、しばらくして膝に乗せた。体に生気はなかったが、好きだった顎の下を撫でるといつものように顔を伸ばした。母と交代交代で抱いていたため、交代のタイミングで私はトイレに行き、帰ってきて一撫での後に水場に行くと呼吸がおかしいと母が呼び止める。急いで君の手を握りながら顔を見ると、咳をするように呼吸をしていた。
君は2、3度深い呼吸をすると、全身に力が入り、そして抜けた。その間、君は母に抱かれ、私に両手を握られていた。私達の君を呼ぶ声が聞こえていたら嬉しい。慟哭する私に問われ、母が脈を取るも、それはなく、呼吸もしない。君は虹の橋を渡った。23歳だった。
その後、泣きながら君の亡骸を整えた。死後すぐに体勢を整えないと死後硬直で棺に収まらないことは何度も覚悟した際に調べたので知っていた。とも言っても私がやったのは棺に見立てたダンボールに収めて整えることくらいだ。母はこれまでの人生で何度か愛猫を亡くしているので、あらかじめ用意をしていたように見え、ダンボールに君愛用の毛布を敷き、防腐用の氷を入れた。私はその間に君のおむつを取り、足の包帯を解いた。そうして君を棺に収め、最後に首輪を外す。
これが一番こたえた。野良猫上がりの君が家猫であることの象徴。君が元気だった時、それについた鈴で私を呼び、歩けなくなった後も居場所を主張するもの。ただでさえ号泣していた私は君の亡骸の上でしばらく動けなくなった。
母が花を買ってきてくれたので棺を二人で彩り、泣いた。低温に保つ必要がある関係で君を別の部屋に移した後もずっと私はそばにいた。だって、頑張って生きたのに冷たい部屋で一人きりなんてかわいそうだ。そう思っていたけれど、単に君のいない寂しさに耐えきれなかったからかもしれない。どんどんと冷たくなっていく君を撫でながら、所々で撫でに来る両親と昔話をした。火葬は母が申し込み、次の日の昼に決まっていた。その日は君の隣で眠り、途中で起きると君を撫でた。君の夢を見たかったけれど、叶わなかった。
次の日はいつもよりも早く起きた。単純に寝付けなかったのもあるが、別れの時間が決まっているため、長く君の顔を見たかったのもある。君は眠っているようだった。眼鏡をかけていない私の目にはお腹が上下しているようにさえ見えた。それでも触ると冷たくて、君が死んだ夢を見ているように感じていた私を現実に引き戻す。
最近は移動式の火葬車があり、家の前で亡骸を焼いてくれる。母が頼んだのもそれだった。調べると近隣トラブルや悪徳業者がいるようで心配だったが後に杞憂で終わる。
火葬車到着予定の一時間前まで君の艷やかでさらさらと心地が良い毛皮の感覚を忘れないように撫で、生前したように頭の天辺に口づけをして、ふと思い立って共に部屋を出た。これが最後になるのだから、一緒に部屋を回りたかったのだ。そうして一緒に眠った自室のベッドで共に横となり、探検していた物置部屋を歩き、水のみや(不本意だっただろうが)体を洗った風呂場を巡る。階段を上がって、日当たりの良さのために君が好んだ父のベットで日に当たり、狭いのによく歩いたゴミ箱の隙間を上で眺め、晩年の定位置であったクッションの上に乗った。そして、母と声をかけ、最後に私の膝の上に君の棺を乗せる。
そこからずっと君を撫でていた。到着時間が30分早まり、別れは迫っていた。やがて呼び鈴がなり、私は君を連れて庭から出て、玄関に向かっていく。これで君がよく歩いた場所は制覇したはずだった。
業者は丁寧な女性で、我々に十分に配慮してくれた。私は自分の手で君の亡骸を指定の場所に収め、棺に残った花を手向ける。おやつの副葬が許されていたため、母がこれまで食べていたカリカリ、買ってきた数種類の刺し身を一切れずつ、父が釣って干した魚の一部を供えた。そして、最後に私は君の体をこれまでと同じように撫で、最後の口づけをした。
わたし達の了解を取った係の方が扉を閉め、しばらくして火が灯された。憎らしいくらい雲一つない快晴だった。
火葬のプランはお骨上げをしないものだった。お金に余裕はあるし(費用は半分出している)、お骨上げをするプランでも良かったのだが、母のすすめでそうした。確かに君の骨を拾うとなると気が動転して時間がかかりそうなのは目に見えていたし、正しかったと思う。火葬には一時間ほどかかると言われていたので写真の整理をした。私は写真をほとんど取らないが、君の愛らしさと共に歩んだ年月の長さにより、少なくない枚数はあった。そして、両親のものも合わせて、デジタルアルバムとした。いつかアナログにするのも悪くないかもしれない。
時間通りに呼び鈴がなった。車に向かうと、係の方のご厚意か、君の喉仏が残されていて、私が骨壺に収めることが許された。母は日本猫でよく日に当たっていたからしっかりしていると笑っていたけれど、私は膝の上で君の鳴らしていた喉を箸ごしに掴むというのが不思議な感覚だった。そうして骨壺に収められ、カバーをかけられた君は炉の熱で暖かい。君の骨は故郷である昔の家、くろちびが眠る場所の隣に年明け埋められる予定だ。だから、その日まで一緒にいられる。
愛しい君へ。長い間お疲れ様。ちまちまやくろぞう、くろちびの分まで生きてと言って、本当に生きてしまったしまへ。一緒にいてくれてありがとう。もう既に膝が寂しいよ。ここに来て温めてほしい。人生の目標を見失って迷う日々だけど、君の体温が幸せだったのは間違いない。世界で一番愛してる。
そっちで母方の祖父母に可愛がられて、ちまちまやくろぞう、くろちびや野良猫の友達と野山を駆け、好きなだけ美味しいものを食べる幸せな日々を過ごしてほしい。
そして、私がそっちに行った時にまた一緒に過ごそう。そっちは言葉の壁がないと信じてるから、その時に色んな答え合わせをしよう。また君を膝に収める日を心待ちにしているよ。
終わりに
私は自分の思っていることを吐き出すのが得意でない。正直日常でも言いたいことが出てこないことがままあり、これは今まで過ごしてきた環境に原因がある。今現在もリハビリをしている最中であり、その間の代替手段として絵等をしている節もある。そのために溢れる気持ちを抑えるには何かにすることが第一の手段だ。こういった形にするのは賛否あるだろうし、普段の私は否の側なのだが、どうしても抱えきれないものと誰かに聞いてほしい気持ちがあった。人間以外と暮らしたことがない人には分かりずらいものかもしれないが、何事もしまの代わりにはなれないことだけ伝わればそれで十分である。
しまがいなくなって3日経った。一年分くらい泣いて、骨壷と共に眠り、写真と首輪をフォトフレーム付きのクラフトボックスに収めた。仕事にも復帰し、MTG中に泣くのは抑えられている。しまの隣にいることしかしなかった時間の影響か、音楽がより鮮明に聞こえ、体は活動的になっている。私を縛っていた最後の一つがなくなってしまい人生に悩む日々だが、どうにか過ごしていけそうだ。
最後にこれまで私がしまと共に過ごす環境を作ってくれた全てに感謝します。
まずはちまちま。貴方がしまとくろちびを連れて来てから全てが始まりました。私は貴方の期待に添えましたか?そっちでしまをよろしくお願いします。
次に両親。しまとくろちびを育てる判断をしたこと、これまでにかけた労力と愛情に。特に晩年の世話の大部分をしていた母。
そしてしまに愛情を注いでくれた方々、そして直接的に会ったことがなくても、私がしまと共にいられるように配慮してくれた方々もありがとうございました。
おかげで幸せでした。